2016年9月19日月曜日

北海道新幹線と52年前の東京オリンピック

函館北斗でなく北斗函館

東京オリンピックの年(196410月)の話である。
その時東京も国も税金を使っての公共事業に官民一体となって狂奔したと記憶している。
「オリンピック期間中は煩いから北海道へ旅に出ようよ」と友人達が誘った。
当時学生で東京が故郷である私はそれに一も二もなく飛びついた。
提案した友人が幹事役となり同級生男女5人での旅を手配してくれた。確か北海道までは学割周遊切符で行ったと思うのだが。楽しかった記憶が今もオリンピックとセットで思い出される。

52年後…。
駅で「北海道新幹線開業記念5日間新幹線乗り放題、2万6千円で発売」のポスターを見た時、その時の楽しい思い出が蘇った。「今度は青函連絡船ではなくて青函トンネルを通って4時間ちょっとで行ける函館まで行って来よう」と即座に決めた。前回は青春切符?で今回は大人の休日倶楽部切符。
不運にも台風10号に遭遇。函館でイカ・ウニ・カニを味わい、木古内で青の洞窟クルーズに乗って神秘の青色と出会い、奥津軽今別町から龍飛に行って青函トンネルを津軽海峡から眺めてついでに「津軽海峡冬景色」を歌い、その後五能線で日本海を堪能し男鹿文化を知る、という私だけの旅スケジュールを組んだまでは良かったのだが…。

 
台風10号接近中の函館山

函館の朝市を築地市場も見習ったら?

台風10号のせいで函館山の夜景は見られず翌日は晴れとなったにも関わらず、新幹線接続のライナーは動かず北斗駅までのバスにも長蛇の人で乗れず。困っていたら若い人達からタクシーの相乗りの申し出があったので即座に便乗。函館駅から北斗まではライナーで20分だがバスやタクシーでは40分近くかかる。それで一言。函館北斗駅は函館市にあらず北斗市である。ゆえに駅名は「北斗函館」であるべし。
10号のせいで木古内のクルーズは中止となり「青の洞窟」行けずじまい。旅はお天気次第を深く感じ入った次第。

そこで20208月東京オリンピックに話が飛ぶ。酷暑だけでなく毎週のように台風がやってくるであろう8月。そんな時期になぜ誰がどういう理由で決めたのだろうか?52年前のオリンピックは10月だったのに。
世界中から競技に集まるアスリート達と観客の事を考えていないとしか思えない。

「おもてなし」はその国にとっての良い季節も含めてである。今からでも10月に変えられないのか?オリンピックのロゴを変え国立競技場を変更し築地市場の延期を決めたのだからより良い「おもてなし」のために開催月を変えるくらいできなくはないだろう。

2016年9月4日日曜日

羽黒山神社で石川雲蝶の龍発見!か?

南魚沼の穴地十二大明神 正面の龍の彫物

羽黒山厳島神社の社 正面の龍の彫物


 雲蝶の龍!?

数年前、奈良の吉野にやく小角おづぬ634-701伝)が開祖とされる修験道の本山、金峰山寺を訪れたことがある。その時それより古いとされる羽黒派古修験道場が出羽三山にある事を知った。なんでも崇峻天皇3番目の息子蜂子皇子(562-641法名弘海 日本書記による)が開祖なんだとか。なんと彼の墓を最近まで宮内庁が人を置いて管理していたと聞き驚愕。1400年も前の、たかが墓に人ひとりが見張るなんて!なんで?

話を戻す。父の天皇が曽我馬子に暗殺されたので(592)彼は従弟の聖徳太子の助けを借りて丹後由良より脱出。海路、鶴岡由良にたどり着き羽黒山に登って修験道場を開いたそうである。
もともとこの国には自然と祖先を敬う神への信仰心があり山岳信仰の修験道の本となっていた。そこに538頃光輝く金色の仏像とともに仏教文化が入ってきたことでこれを取り入れ更なる安心と守護を神仏双方へ願ったのである。外来の物に憧れる。いつの時代でも人の気持ちは同じようなものだ。

前振りが長くなってしまった。ある日出羽三山からお呼びが掛かった。というのは私の一人勝手な解釈なのだが、とにかく8月中までに行かねばと決心したのは確かである。
 頂上に万年雪が残る月山には8合目の中の宮、弥陀ヶ原湿原までしか行かれなかったが湿原からは山々に囲まれた庄内平野が見渡せた。秋にはこの平野が黄金一色に輝くのだろう。「日本の稲作」こそは「世界遺産」に登録されるべきだと私は思った。
湯殿山ご神体はお湯があふれ出る銅色の岩山である。お社は無くお祓いを受けた後それを裸足でぐるっと廻るとお参りしたことになる。この事は「語るなかれ」「聞くなかれ」とか。誰がいつ頃からそんな事を言い出したのだろうか?神秘性を高める事で多くの人達に参拝してもらいたいと願ってか。湯殿山には素朴で純真な日本人の自然信仰が残っていた。

最後にここに来れば月山、湯殿山にもお参りしたことになる都合の良い三神合祭殿のある羽黒山に向かった。
2446の石段を上がり鳥居を抜けたところに厳島神社の社と蜂子皇子の社と称されるお社があった。そこで勢いのある素晴らしい龍の彫刻を見つけた。東洋のミケランジェロ雲蝶作ではないか?昨年10月、石川雲蝶(1814-1883)の作品群を魚沼市内にある永林寺、西福寺開山堂、穴地十二大明神と見て回っていた私の目にはそう見えたのだ。そしてまたふたつの社は明治元年(1868)からの廃仏毀釈でお堂から社に名前を変えたのではないか。これから良く調べてみたい。真相を知っている人があれば教えてください。


2016年7月2日土曜日

3度目のシンガポールと台北の旅から② CHINESE as NUMBER 1

今を昔に比ぶれば…台北編


「慈佑宮」門前まで連なる夜市

私は中華料理が大好きである。
中国には何回いっただろうか?十数回は行っている。
1967年、香港へ行ったのが初の海外旅行体験であり本場中華料理体験の旅であった。お客様をアテンドするのが仕事だったので会社の経費で連日連夜円いテーブルを囲んで中華三昧を体験させてもらった。
余談になるが、その時観光で連れて行った丘の向こう側に灰色の茫漠とした大地を指さしガイドがそっけなく「あちらが中国大陸です」と言った。その時いつかあちら側に行ってみたいと思った事は今も忘れてはいない。

その後1972年、日中の国交が回復した。それまで台湾中国だけとお付き合いをしていた日本は国家としては台湾と縁を切りメインランドの中華人民共和国と正式な関係を結んだ。しかし台湾とは裏では戦前の日本台湾総督府統治時代以来ずっと人・物・金脈は深くつながっていた。深く静かに関係は続き現在では1800社も日本の企業が進出していると聞く。

なにしろ1回目の台湾へは1978年、2度目が1990年だったと思う。
26年経って今年が3度目ということになる。1回目、2回目とも目的が違う旅だったが中華料理の美味体験は忘れる事はなかった。

賑わう九份の観光客御用達グルメストリート

1978年、北京ダックを最初に食べたのが台北の家族経営の小さな店だった。案内してくれた商社マンは「蒋介石の料理番だったコックさんの店」と言っていた。だから伝統的かつ正統な「北京ダック」なんだとか。艶々としたキツネ色のダックが披露されその後ダックの皮だけが運ばれてきた。その皮をネギの芯と甜麺醤を一緒に餅皮に包み食べるのだ。初めての味覚体験は「北京ダック=ジューシーでパリパリ=最高の美味」と脳内に記憶された。国交回復直後の北京で老舗名を引き継いだ店で食べたが私の脳内記憶の北京ダックとは違った。銀座で北京の老舗を名乗る店でも食べたが、肉付き皮のうえ甜麺醤の味が違った。もうあの味を体験できないかと諦めていたのだが今回なんとあの「北京ダック」を同行した友人のお蔭で食す事ができた。
最初に食べた記憶のままであった。台北で北京ダック!
それにしても私は今まで長い中国の旅歴にもかかわらず、残念ながら中国本土で記憶に残る美味なる中華料理に出合った事がない。

行天宮でおみくじを引く若者達の群れ

お寺でおみくじを引き、夜市を食べ歩く台北の若者達を見て、そういえば中国本土ではお寺参りをするのは老人で若者を見かけなかった事を思い出した。
どこの国にでも中華料理があるのは世界中に華人が拡散しているからだ。
中国本土を除いてアジアの中華はどこでも美味しかった。シンガポール中華も台湾中華も美味しかったが、でも日本中華が一番好きである。


3度目のシンガポールと台北の旅から① CHINESE as NUMBER 1

今を昔に比ぶれば…シンガポール編

マリナベイサンズのバーからの夜景
ブレードランナーのワンシーンを思い起こさせる

この6月、週を跨いでシンガポールと台北に行った。
シンガポールは長期出張中の息子からのお誘いで突発的に、台北の旅は以前から計画していたものだ。ただ時期が集中しただけなのだ。今は両方ともビザがいらないし現地にそれぞれ宛てがあるせいか、国内移動と違いがないと感じた。
それほどにアジアの国同士、移動がたやすくなってきている。台北は3時間前後、シンガポールへはハワイ並みの7時間前後のフライトで時差が1時間のせいもある。そしてアジア圏では食事が口に馴染みやすい事もある。

さて、シンガポールの旅だが、1回目は1981年(35年前)で2回目は1990年頃で3回目は今回の2016年でいずれも観光目的であった。それと2006年に船旅で半日寄港したことがあった。そのときはラッフルズホテルにお茶だけしに行った記憶がある。 
昔の思い出と言えばとにかく暑かった事で植物園は良かったとかオーチャードロードの緑溢れる並木が美しかったなあとかマーライオンが小さくて白過ぎてがっかりした事とか人種によって住み分けている街だなあとか、他愛もない印象しか残っていない。

ガーデンバイザベイのドーム内からスーパーツリーを眺める

今回の旅でなにより驚いたのは小ぎれいな箱庭的な都市が更なる未来志向の都市を目指して発展を遂げつつあるという事だ。
湾を中心にして狭いエリアに縦横に走る道路網につながれた高層ビル群が林立する様は「ブレードランナー 1982公開の米映画」を思い起こさせた。巨大ドームに世界中の植物を集めた「ガーデンズ・バイザベイ」(20126月オープン)にはただ驚愕と感動。
町中ではなにより群を抜いてチャイナタウンは立派に大きくなっていた。
マーライオンは新しく作り直されたと思ったほど大きく見えしかも景気よく水を吐き出していた。なんでも2002年に風水によって現在の位置に移動し「マーライオンパーク」にしたおかげで国の運勢が上昇しているのだとか。

57階にインフィニティプールのあるマリナベイサンズに向かって
大いに気(水)を吐くマーライオン 

未来都市としてのシンガポールはアジアでは一番ではないか。輪タクや移動屋台があった昔の記憶を懐かしみながら新しいアジアの時代を体感できた良い旅だった。


2016年5月15日日曜日

旅のご縁が花の縁
















    SHIGEKO GARDEN の花たち

















まさか旅先でそんな縁をもらうなんて思いもよらなかった。旅は異なもの不思議ものを地で言ったお話しをしたい。

今年1月、釜山の旅で時知り合った方がご自分の名を付けたガーデンの話をされたので春になったらぜひ見せてもらいたい旨お願いしておいた。かねてより幻の花園をテーマにした曼荼羅絵を100号のキャンバスに描こうと思っていたからである。

ようよう季節が到来しこの4月、勇んで伊東へ花園を見に飛んで行った。
「SHIGEKO GARDEN」には様々な花が咲き乱れ、それぞれが生命の色を誇っていた。が、一瞬にして私が惹きつけられたのはまるで人のように見えたソメイヨシノの老木であった。手を広げあるがままの姿で枝を張って花を咲かせている様はまさに「私を描いて」と言われているような気がしてならなかった。
百年は越しているそうで「この桜と老犬とわたしのうち誰が先にこの世から去るか」が花園の主にとっての最大の関心事だそうな。季節が巡って花が咲き、季節が過ぎて花は散る。その繰り返しの中に生命の輪廻を見た気がする。


                    ソメイヨシノ

私にとってはそれが花で表現したマンダラ絵なのである。そして生き物同志の共感を覚えた。わたしも自然界の一部であり同じ仲間なんだと。その不思議な感動を無性に絵にしたくなり夢中でスケッチをした。国外で偶然に一緒になった方から絵のモチーフを描くチャンスを私はもらったのである。
呼び寄せたのは樹齢100有余年の桜の老木であったような気がしてならない。目下アトリエで製作しているのだが、桜の老木がいつのまにか人のようになってしまっている。

あの木に潜んでいた桜の精のなせる業かもしれないと思いそのまま描き続けている。どんな絵に仕上がっていくのだろうか。実のところ私にも分からないのである。


2016年3月13日日曜日

日本の秘境は外国人で大賑わい  今は昔にあらずして

五箇山相倉集落

今は昔、40年前のお話である。白川郷とやらが秘境と聞き及び金沢の友人に車で連れて行ってもらった事があった。くねった山道を幾重も曲がりようやくたどり着いた先に「白川郷」と呼ばれる合掌造りの集落があった。素朴な「日本の原風景」を見て「日本の秘境」を知った気になり感動した記憶があった。

ふと昔を思い出し雪に覆われた合掌造りの集落を旅してみたくなった。「白川郷」は観光地化が著しいと聞いていたので同じ合掌作りの小さな集落「五箇山」に泊ることにした。
今はネットで情報検索すればいくらでも現地情報が分る。しかしながら私にはどうもネット情報は絵に描いた餅のように見えて自分が食べたいお餅にはならない。
それで最近活用している方法は現地観光案内所にメールして自分が知りたい事だけ教えてもらう方法を取っている。これは個人旅行の私にとって精神的にも時間的にも好都合な方法だと気に入っている。

相倉合掌作りの家

さて今回今秘境?「五箇山」の合掌民宿で私は40歳前後のマレーシアからの夫婦と、同じ年代のイギリスからの男女のカップルと同宿となった。マレーシア組は15年前から毎年日本を旅しているとかで日本語は話せないものの日本の事、日本人の事を実によく知っていた。日本の牛肉が大好きで次の宿の奥飛騨で「飛騨牛」を食べるのが楽しみだとか。イギリス組はなんと50日間、北は北海道から九州鹿児島まで日本を旅してまわっている最中で東京ではアパートに泊っているという。彼らも日本語は駄目だがすべて知りたい情報はスマートフォンでアクセスできるので何不自由ないそうだ。それにプラス宿や旅先で出会う日本人で英語が分る人達からの現地情報。さっそく私は彼らからおすすめのスポットや日本の風習習慣への疑問点を次々と聞かれ答える羽目になってしまった。

行きの新幹線でもこんな事があった。香港からの若い女性と隣り合い偶然言葉を交わしたことがきっかけで高岡に大仏をワンデイトリップで見に行くこと、JRのフリー切符を使って翌日もこれまた日帰りで立石寺に行くこと聞き寺が大好き人間なのだと知った。嬉しくなって寺の情報をあれこれ教えてやったらその場でタブレットを操作して私が言った事の情報を詳しく調べていた。これも仏さまのご縁だろうか?

白川郷を城山展望台から望む

さて秘境「五箇山」の後「白川郷」に行ったのだが中国人で溢れかえっていた。最近はなんでも8割が中国本土・台湾・香港を始めとする中国勢とタイ・マレーシア・シンガポールなどのアジア勢が中心だそうだ。関西から近いこともあるだろうが。世界遺産の「日本の原風景」を訪れる外国人の多さに驚き、世界遺産の看板力が日本の秘境を変えた事に驚いた。

そしてなにより香港・台湾を含む中国人達が「日本の原風景」をいかに大好きか知った事が驚きであった。

2016年2月14日日曜日

2時間で行ける隣国、韓国―釜山近代歴史館と日本人移住集落街―

釜山近代歴史館
(日本統治時代1929建設 元東洋拓殖(株)釜山支店現現釜山歴史館)


20077月に壱岐に旅したついでに対馬に渡った事がある。その日は晴れていて韓国展望所からはしっかり釜山が見えた。約50キロしか離れていないというその近さを実感した。
対馬の旅と京都の旅と今回の釜山の旅は時期も違えば目的も違っていたのだがなぜかコヨリの如く絡みあって日朝の歴史を私に考えさせてくれた。  

ところで今回なぜ釜山に?だが、何を隠そう韓国で冬の味覚を存分に楽しみたかったからである。お目当てはズワイガニとフグと焼き肉と韓国郷土料理+マッコリ。ちょうどよい具合に知り合いの旅行社がグルメツアープラスお寺と温泉付きを企画していたので便乗した。こういう添乗員付きの旅も楽ちんのうえ同好の見知らぬ人との出会いもあってそれなりに面白い。「旅は一人旅」がモットーの私にしてみればなにしろ体だけスケジュールに合わせればよいのだからこんな楽な旅行はない。荷物も持たず手続き一切を自分でしなくてよいうえ、連れ廻ってくれる。帰国後は旅の記録まで送ってくれるサービスもあって至れり尽くせりである。
 
竹島市場(ジェクド)の茹でズワイガニ;

さてそういうツアーではあるが、しっかり近代歴史を廻るコースが組まれていた。
釜山近代歴史館となっている旧東洋拓殖(株)釜山支店の建物と九龍浦に残る日本人移住集落街の見学である。それによって日韓の近代歴史をより実感をもって知ることができた。
国の歴史というものは天橋立の「股のぞき」のように真逆から見るとまったく違う光景に見え違う解釈となる。起きた事実は一つであっても、所属する国が違えば個人レベルでも全く同じようには見えないのも事実である。ざっと3千年も大昔から日本と朝鮮半島の歴史は積み重なって今日に至っている事は事実である。日本海という内海を通して一族、部族、邦、国単位で戦いと和平を繰り返してきた事も事実である。
ずっとこれから先もこの日本は朝鮮半島の国々とうまくやってきかなければならない事も事実である。
そのような意味からも個人レベルで釜山近代歴史館と日本人移住集落街を訪ねた事で真逆からこの国を客観的に見ることが出来て良かった。

日本人街(九龍浦地区)

しかし、なにより良かった事は、日本だったら高くつくズワイガニとフグと焼肉と郷土料理の数々を連日食せた事実である。私にとってはそれによって幸福(口福)を味わえた事がなによりの事実なのである。