2015年12月30日水曜日

聖地③ イスラエルの「壁」がパレスチナの「嘆き」ではないのか

武装兵士が立っている検問所

ベツレヘムの壁

入植地を囲う壁

オスロ合意から224か月経った今、両者の関係に緊張が高まりつつあるとメデイアでは伝えられている。事実かどうか私には分からない。12月の6日から11日までパレスチナのラマッラ―とベツレヘム・ジェリコとエルサレムへのご機嫌な旅をさせてもらった私にしてみれば「犠牲になるのはそこに今暮らす人達なのに」と思わずにはいられない。天気も良く行きたいところに行け、見たいものは見ることができ、食べたいものも食べられた私としてはこれからパレスチナの旅をおすすめしたいと思っているからだ。

たった4日ほどの滞在で両者の深くて暗い政治問題の何を言えよう。それは盲人が象の一部をなでてそのものを言い当てようとするようなものだ。知りたい人はご自身で多方面から情報を得て欲しい。数日の旅ではあったが道中から見た風景で奇異に感じたのは、長い壁のような柵がやけに張り巡らされている事。ガイドに聞いたら「イスラエルへの入植者に安全を保障するという名目で実はパレスチナと分断隔離するため」とのこと。

武装兵士が待つ検問所の多さにも驚いた。「イスラエル側へのパレスチナ人の出入りを監視するため」。ベツレヘムの宿泊したホテルのエレベーター内には大きな監視カメラがあり「カメラに向かって微笑みましょう」と貼紙されていた。観光客の私でも自国がこうなら「嫌だな」と感じたほどだ。その土地に生まれ育ち暮らす人達にしてみれば毎日どれほどプレッシャーに感じていることか。日常に壁がある事がますます両者を隔てていくのではないか。目に見える壁だけでなく両者を隔てる心の壁も取り除いて欲しいと願う。
これほどまでに世界宗教のエッセンスが詰まった処は世界中探してもどこにもないと思うからです。


2015年12月23日水曜日

聖地の謎② ~聖樹そして「最後の晩餐」との縁

ゲッセマネの樹齢2千年以上のオリーブ

聖地には聖樹がつきものだ。

エルサレムではイエスの足跡が多く残されているオリーブ山のゲッセマネの園に行った。ゲッセマネとはヘブライ語で「油搾り」と言う意味で2千年前には一面がオリーブの林だったそうだ。ここにイエスは祈りによくきていて「最後の晩餐」を終えた夜もこのオリーブ園で祈りを捧げたと言われている。うっすらと香気が漂いとても心地が良くて心が落ち着く場所であった。その中の8本のオリーブの木は2千年前からずっとあるのだとか。聖樹とも言うべきオリーブの木はまさに「人の集合体!」のようだった。幾十もの木がよじれ重なり合い一つの幹となった太い幹は石のようであった。が、上を見上げると枝を伸ばし青々と葉を茂らせているではないか。なんという生命力だろう!

旅の3日目、1万年前にすでに人が住み西洋考古学の宝庫といわれるジェリコに行った時にも聖樹に出会った。「ザアカイの木」と呼ばれ聖書に出てくる。2千年前から生き続けている大きないちじく桑の木で、今も葉は青々と茂っていた。釈尊にも無憂樹・印度菩提樹・沙羅双樹の伝説の聖樹がある。聖地には後世にそれを語り継ぐ生き証人(樹)がいるものだと感心した。


ザアカイの樹 イエスの生き証人

 イエス関連になるが「最後の晩餐」の因縁話をしてみたい。私はクリスチャンではない。お釈迦さんの弟子を自認しているブッデイストだ。今年(2015年)6月にミラノに行ったときの事。本当に運良く「ダビンチの最後の晩餐」サンタ・マリア・デレ・グラッツィエ修道院で本物を観ることができた。その絵を見た時鳥肌が立つほど感動し初めて複製画を買ったほどだった。(時間も人数も制限されている完全予約制で予約を取るのも大変な世界遺産の所)

最後の晩餐の元絵

 今回のエルサレム観光でなんと「最後の晩餐をした部屋」にも行き聖墳墓教会ではこれまたダビンチの元絵と言われている「最後の晩餐の絵」も信じられないほどきれいに写真に撮れたのだ。洞窟の中は暗く肉眼でもほとんど見えなかったにもかかわらず。イエスが生きた時代から千五百年後にダビンチの手によって描かれた「最後の晩餐の絵」を見た後でその元を辿るとは!ミラノからエルサレムへの繋がりはすべて偶然によるものだ。
が、偶然に見せかけた必然がある気がするのだ。そうした縁を繋ぐことが出来た幸運な私にはこれからなすべき事があるのだと感じた


2015年12月20日日曜日

聖地の謎①~エルサレム・ベツレヘムそしてエリコへ

 今回の旅ほど偶然は必然であることを感じさせてくれた旅はなかった。72の誕生日を前に聖地が聖地である訳を私は本当に知る事ができたからである。これに勝る自分への誕生祝はない。

ところでそれを知った所とはエルサレム。
「なぜまたこんな時期に?」とまわりの誰もが心配してくれた。「やめたら?」とまで言う友人もいた。私はなにも突然にこの時期行こうと思ったのではない。ちょうど1年前、ただ空爆されたガザの子供たちがあまりにも可哀そうで慰めたくて、パレスチナ子どもキャンペーンという支援団体を通して絵と幾ばくかの寄付金を贈った。その時からそこに行ってみたいと思っていたのである。
しかしどう転んでもガザには行かれそうにもないことが分りせめてエルサレムには行こうと決めたのだった。それがタイミング的にはこの12月になったに過ぎない。

旅行代金全額を振り込んだ後にパリの事件、ロシアのトルコ機撃墜と起きた。テレビ・新聞などのマスメデイアでも過剰なほどの報道があった。出発近くにネット上知ったのだが現地でもパレスチナ人とユダヤ人の事件も起きていた。「現地観光は問題ない」とのことだったがさすがに「ほんとに行けるだろうか?」と私も思ったほどだった。現地ツアーガイドによるパッケージツアーとはいえ一人旅である。日本での報道だけを見ていると誰もがあの地域はすべて危険地帯のように思える。そんな中「飛んで火に入る脳天気」と周りは思ったに違いない。

エルサレムではアフリカ・インド・台湾・韓国・コスタリカと世界中からの観光客と巡礼者に出会ったが、出会いたくもない武装兵士達にも出くわした。それはさておき、出くわしたい事に出くわせた話をしよう。

イエスが磔にされたゴルゴダの丘に建てられた聖墳墓教会の入口に立った時の事。私の体が自然に震え出しその震えがしばし止まらなかったのだ。悪寒を感じた時の震えではない。何かに体が感応したのである。目には見えない何かが何かを伝えようとしている!
この地は数千年に渡り人類という生命体を魅了してきた巨大な生命磁場なのではないか。そう私は知ったのである。そして心も満ち足りたのだった。



晴天のヨルダン渓谷をバックにドライバーガイドのジミーがパチリ。
裏手は20056月に訪れた懐かしのヨルダン。

        オリーブ山より望むイスラム・キリスト・ユダヤの聖地が三つ巴。
 中欧歴史の基の元。


2015年11月10日火曜日

会津で土方歳三に出会い歴史認識を考えた

会津若松の鶴ヶ城
湯川沿いの東山温泉街
土方歳三の露天風呂

ひと月前の話である。酒ペン友の会に誘われて「会津の酒蔵めぐりと温泉の旅」に出掛けた。

かねてより私は日本酒が世界で一番旨い酒だと公言するほどの日本酒好きである。
旨酒の玉に瑕がウマ過ぎて飲み過ぎる事。日本酒を飲む時は必ずお水も一緒に飲む事をおすすめする。二日酔いには絶対ならない。もっとも飲み過ぎれば話は別だが。

話が横にそれてしまった。以前会津を旅したことがある。NHKの朝ドラ「八重の桜」が始まった頃だった。確か桜の頃だったように思う。その時、会津の地でその敗者側の歴史に直接触れる事ができて考えさせられた。「勝てば官軍負ければ賊軍」とはよく言ったものだと思った。歴史という公式記録書は勝者が記す。だから勝者の言い分が語り継がれていく。教科書歴史と私は呼んでいるのだが。それは時代の支配者達のための官製かつ公式見解である。よく「歴史に学ぶ」という事が言われるが勝者から学ぶことは一つしかない。勝者になるための方法である。一方敗者からは学ぶべき事は多い。敗者達に等身大の自分を重ねながら考えさせられる事が大だからである。
150130年前の曽祖父母たちの時代を敗者の視点で振り返らせてくれた会津を再訪できて嬉しかった。さてその2度目の会津、宿は東山温泉であった。初めて泊まったのだが温泉が素晴らしく温泉好きの私としてはこの温泉にまたまた来たいと思った。

さて、今回の旅で思いがけず土方歳三の足跡と出会った。子どもの頃見たチャンバラ映画では薩長の志士たちはいつも善玉で新選組は悪玉であった。隊長の「近藤勇」はNO .1の悪者で鬼の副長土方歳三はNO.2の敵役だった。あの時代、チャンバラ好きの子供にとって新選組は悪、明治維新を推進した志士達は善と植え付けられた気がする。これも歴史の「勝てば官軍」志向のせいだと思っている。

さて、温泉とお酒を堪能して爆睡した翌朝は目覚めも快適。心から日本人に生まれて良かったと思う。朝の気分も浮き浮きと湯川散策をしていたら土方歳三がこの温泉地で戊辰戦争の傷を癒していたという露天風呂を発見。この温泉に漬かりながら彼は一体なにを考えていたのだろう。イケメン土方歳三の写真絵とともに想像を膨らませた。偶然ではあったが楽しい歴史散歩となった。ところが偶然はそれだけではなかった。なんとその日の「あさがきた(NHKの朝ドラ)」にその土方歳三が登場していたのだ!偶然にしては出来過ぎの話だとみなさんは思うだろうがホントに本当の話デス。

彼ら敗者の歴史を知り現場も見た私へご褒美に土方歳三が楽しませてくれたのだと思うことにした。
光を当てると影が出来るように、勝者という光はそのまま敗者の影となり、敗者の光は勝者の影となる。二つが合わさり一つの歴史となる。歴史認識とはなにも難しいことではない。歴史を勝者と敗者、両方の視点で見ればいいのだ。難しいと言う人たちは言い訳をして見ようとしないだけなのだと私は思っている。





2015年10月3日土曜日

知床のゴジラ!? ― ナツタビ(懐旅)から ー



先ずは写真をご覧あれ。ゴジラに見えませんか?自然に出来た岩だそうです。
ゴジラのフリーズかと思ってしまったほど、ゴジラそのものですよね?不思議な類似発見は木だけでなく岩にもあるものですね。知床のウトロでなんとゴジラに出会うとは。最初のゴジラ映画から60年。昨年にはハリウッド映画となって戻ってきたらしいのですが(私はそれは観ていません)私が観た1954年(昭和29)のゴジラ映画のゴジラとその姿は同じように思えました。ゴジラも寄る年波で安住の地が欲しくなったのでしょうか?それとも最後のご奉仕をするため知床に来られたのでしょうか?

私も年のせいだろうか昔の記憶を辿る旅が多くなってきた。不意にその場所が頭に浮かび懐かしい思い出が心を駆け巡る。そんな時には「その土地から呼ばれた」と思い再び行くようにしている。さて呼ばれたとその勝手に思っていた土地の一つが知床である。
懐かしい思い出のほうだが、ちょうど東京オリンピックの年、学生だった私は仲間達と北海道旅行に出かけたのである。
学生として最後の年に当時オリンピック一色の騒々しい東京を離れ自分たちの思い出に残る旅がしたかったからである。

その旅で50年経っても記憶に残っているのは、

2015年8月25日火曜日

高野山の摩訶不思議体験

木が人に見え?!五輪塔が人に見えた?!





そんなはずは?!でもモノが人に見えたことってありませんか?

この夏、高野山大学院通信教育のスクーリングで山にしばらく籠もった。その時高野山奥の院への参詣道での体験である。

昼間行ったのだが、木が人に、五輪塔が人に、見えたのだ。知合いの心理学者によると心の奥底にある人恋しい、人を大事に思う気持ちがなせる幻視現象とのこと。鬱蒼とした杉林に囲まれた苔むす五輪塔、仏塔、供養塔はモノだと分かっていても私にはどうしてもヒトの変化にしか見えなかった。夜だったらもっとヒトに思えたに違いない。

さて、そんな参詣道になんとわざわざ夜を選んで訪れる人達がいると聞いて驚いた。それは欧米からの観光客達。カップルやファミリー、一人旅といった個人旅行者が多い。異国からの観光客でましてや信徒でなければ霊的な聖地であっても彼らには単なる自然の散歩道にしか見えないのだろう。
しかし異国の異宗教の聖地に夜訪れると言うのはどういう意味を持つことなのか、それを信仰する人達にどう受け取られるのか分かった上なのだろうか?とても気になった。

世界遺産であることはそこを訪れる世界の人達がリスペクトし守っていくということではないのか?


2015年7月18日土曜日

イタリアの旅から

ジョットの塔からの眺めたフィレンツェの町

日中韓は歴史的にも地政的にも向こう三軒両隣、民族的には西洋人からすれば同じ東洋人。

この間イタリアはローマからフィレンツェ、ヴェネチア、ミラノと廻って来た。
町自体が世界遺産になっているフィレンツェには特に魅了された。旅行社のキャッチコピーではないけれど中世にタイムスリップして異文化を堪能できた。 

ところがである。町全体が見渡せるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の脇に建つジョットの414段、息も絶え絶えに登って目に飛び込んできたのがなんと落書きのオンパレード。
遠い異国で皮肉にも日韓が仲良く落書きしているのを見て悟った。
日韓問題は「目くそ鼻くその類である」と。つまるところ日韓は同祖で似たモノ同士でホントは仲良しってこと。538年と言われている仏教伝来以来国同士が仲良しの関係なのである。
日本語の落書き
 ハングルの落書き

話は変わる。観光地先で大勢の中国人旅行客と会ったがその中に中高年の日本人の団体がいたのに中国人にしか思えなかった。背格好といい服装といい仕草いいと私の眼には「同じ国の人」に見えたのである。日本語が聞こえて来て日本人だと気付いたのだ。
よく旅先で「どこの国からか」と尋ねられることがあったがほとんどのひとが「中国人か」と聞く。次が「韓国人」か「タイ人」で「日本人」と答えた人は皆無であった。
最初のころはムキになって「日本人」と言っていたがあまりに多いので「違う」としか言わなくなった。
ひとたび、国外に出るとパスポートでも示さない限りどこの国の人なのかは分からないからだし、それがどうしたって事でもある。
とすると『日本人が中国人に見えた』現象はついにわたしも西洋人の眼を持つようになったということなのか?!それとも『日本人が中国化』してきたってことなのか?!


*落書きをした人へ。
 もし日本人ならば消しに行って欲しい。

2015年6月20日土曜日

ハンセン病の映画

先日、地味なドキュメンタリー映画の試写会に行って来た。
友人の友人の縁で応援する羽目になったためである。
フィリピンの元ハンセン病者たちを描いた野澤和之監督の映画だ。
日本の元ハンセン病夫婦の愛を描いた「 61ha絆」に続き2作目である。
ハンセン病については「ベンハ―」と松本清張の「砂の器」での知識しか私にはなかった。

悲惨な事実も背景の自然が美しいと心がそれほど痛まないで見ていられるということが分かった。


購入もできるこのDVDの問い合わせ先はnozawaimpc.jp


2015年5月5日火曜日

ガザに渡った「祈り」の絵

絵を手に ガザの子ども達


昨年ブログ上で私が描かずにはいられなかった「祈り」の絵のオハナシをしましたよね?
その時、私は絵をオークションで売り「パレスチナ子どもキャンペーン」に寄付すると宣言しました。
するとそれを知った3人の方から寄付をいただきました。
お陰さまで寄付と合わせて絵を「パレスチナ子どもキャンペーン」に去年12月に寄贈できました。

今年2月、その絵をガザの「ナワ―ル児童館」に中村駐在員が持参してくれました。
子ども達も喜んでくれたと聞きました。
その時の写真が届きましたので紹介します。

国も言葉も違えども願いは同じただひとつ
世界が「サラーム」「平和」になりますように


「パレスチナ子どもキャンペーン」の活動に関心・興味をもたれた方は直接問い合わせください。

info@ccp-ngo.jp   facebookあり

2015年4月12日日曜日

This is 日本 ~永平寺と立山連峰と しだれ桜~

 永平寺奥

立山連峰

しだれ桜


永平寺から勝山まで足を伸ばし金沢まで行って来た。
ここ黒潮流れる東京湾側とは違いとても変化に富んでいた。
寺あり雪山あり九頭竜あり。そしてここでも桜桜桜。
帰りは金沢から新幹線のお陰で2時間半。これほど日本海側が近くなったとは!
身をもって知りました。
4月半ばには7年目の御開帳の善光寺さんに行く事になっているし
8月は開創千二百年の高野山に行く予定。
これって単なる偶然なのか必然なのかしらん?


2015年3月30日月曜日

プノンペンのキリング・フィールド


トゥール・スレン虐殺博物館 


戦後70年。
当時2才であったが、ギンザの焼け野原と進駐軍の行進は今もはっきりと覚えている。
戦後しばらくは浮浪児も傷痍軍人もよく見かけた。
さて30年前。NYタイムズ記者の眼から描かれた映画「キリング・フィールド」でカンボジア内戦の様子を知った。映像が刺のように心に突き刺さった。
そして25年前。アンコールワットを訪れた時、小さくやせ細った子ども達が裸同然で物乞いする光景を見せつけられた。が、しょせん私には他国事であった。

それから10数年の後。
カンボジアの孤児たちと京都の清水寺で再会し縁を感じた私は、毎年井戸を贈ることにした。
今までで10基、シェムリアップ周辺の村に作った。すべて自分の眼で確かめている。
カンボジアもポルポト時代から30有余年経とうとしている。最近、カンボジアを舞台にした投資詐欺話がニュースなった。経済発展が著しいとも聞いた。そんな事もあり今回初めて首都プノンペンに寄ることにした。
昨年秋、支援している「だるま愛育園」の設立者内田さんが長い病床の末亡くなられた。縁のきっかけとなった彼の墓参と井戸の出来上がりとだるまの子ども達の様子を見にシェムリアップ行きを決めた。事のついでにプノンペンのキリング・フィールドを見てこようと思ったのだ。



チュンエク キリング・フィールド


「これがキリング・フィールドの映画で見たようなゴーストタウンになった町だったのか???」。
町は車はもちろん、バイク、トゥクトゥク、自転車、人が溢れエネルギーに満ち満ちていた。交通渋滞に加え埃もひどくて空気が悪い。東京の50~60年前を見たような気がした。
メコン川沿いはおしゃれな空間で隅田川リバーサイドテラスにいるような気分にさせられた。都市は世界中ほんとにどこも同じだとあらためて感じさせられた。
先ず中心部にある歴史上の事実を証明するトゥ-ル・スレン虐殺博物館(元高校の建物)を訪れてみた。なんとも形容する言葉が見当たらない。キリング・フィールドの映画を見た時に感じた刺の痛みに似た感覚が蘇った。拷問室と化した教室は人人人で混んでいるにもかかわらず寒々としていた。建物の壁や床には永久に取れることは無いであろう血痕が残っていた。私は合掌し、そしてすべて直視した。見終えた後、突き刺さっていた刺は取れ痛みは無くなっていた。『来て見て感じられて良かった』

チュンエクのキリング・フィールドは近郊にあった。現地はのどかな田園風景が広がりクメール・ルージュの狂気の殺戮場所とは思えなかった。

しかし、その中に一歩入ると心臓が痛くなった。熱い日差しにもかかわらず冷い気が漂っているせいだろうか。体の表面は熱くて汗をかくのだけれど体の芯は冷たくて寒い。無数の霊気が感じられる。ここでも合掌をしながら見て廻った。私は祈りを込めた念珠を殺戮の木に捧げた。涙が出てきた。合掌。ここプノンペンのキリング・フィールドでの歴史的事実も戦後70年の日本が犯した歴史的事実も『己()のために人は人を殺す』と言う点では同じ事なのだ。





窪みに座する供養菩薩に守られて集う人々の顔が見えませんか?





2015年3月2日月曜日

カンボジアからの便り



             


偶然、NHKのBSプレミアムで「姿なき独裁者ポルポト」を見た218日の翌日の事。

なんとカンボジアこどもスマイルの小野ゆう子さんから寄贈した3基の井戸完成証明書が送られてきたのです。

これで10基になります。地下30メートルからポンプで汲み上げる井戸で安心な水が10年間、供給できるのです。

3月14日からだるま愛育園の子ども達に会いに、井戸を見に行って来ようと決めました。

シェムリアップのキリングフィールドは知っていますが、そして今回はプノンペンのキリングフィールドも見てこようと思ってます。



2015年1月19日月曜日

年初めの年賀状



年初めの年賀状で「月に1回はブログを更新する」と宣言したものの、それを果たせないまま約束の期日が過ぎてしまった。
そこで自戒も込めてその宣言年賀状と高尾山で出会えた美しい富士山の写真を載せることにしました。


その日は「天気晴朗なれど風雲強し」でした。今年の天の気やいかに?